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人生を変えたひとり人旅~ルーツを知る

更新日は便宜的に2019年としていますが、2020年9月19日~21日まで小旅行をしてきたときのお話です。

デ・スーザという姓に生まれて

生まれてこの方、「変えられないもの」については「受け入れるしか無い。その上でどうするか考えよう」と言う姿勢を一貫してきましたが、その思想のキッカケにもなったのは、まちがいなく「自分の名前」です。

特に、少年期。40年前の僕の周りの日本人にとって「デ・スーザ」と言う名前は、奇異の対象でしかなく、その「常識では無いもの」に対する扱いは様々な形となって表れていました。時にそれは、常識と異なるものへの「興味」、目立つことへの「嫉妬」、無意識的な「排他(差別)」などなど……。僕の「ありよう」とは関係なくそういう感情の「巻き込まれ事故」を受け続けてきた訳です(笑)

実は「海外の名前を持って生まれる」と言う人生は、日本というシステムとの整合性は最悪です(経験談)。

就職難の氷河期時代に「就労ビザを出せ」と門前払いされたり(わたし日本生まれ、日本育ちの日本国籍ですけど)「普通の日本人がおおよそしない」経験をこれでもか!と言うほどしました。

その都度、イヤになる程、思い知らされ、至った結論は1つ。

「僕は(みんなと一緒の)日本人では無い」

ちなみに、21歳の頃、初めてオーストラリアに行ったときに現地の人から「この、アジア人めが」と言われたとき、僕の「何かへの帰属意識」は完全に崩壊しており(笑)

ああ、もう僕は何にも属さないのねー。はいはい。わかりました~(笑)

と、諦めて、このカタカナ名を「目立つアイコン」として「利用」することはあっても、とくに大きな誇りも感慨もないポジションに整理して生きることにしていました。

そんな僕が「長崎のデスーザ家」と言う記事に触れたのは今から数年前のこと。
家族の誰かから「こんなのあるよ」とグラバー園のホームページを見せてもらったのです。

当時は「へー」くらいの気持ちでしたが、折に触れて、どうも気になる。

「このままモヤモヤしたものを持ったまま、墓に入るのもアレだし一回くらいナムナム(ご挨拶)しに行くか」くらいの気持ちで今回、ある程度の下調べをした上で、41歳の先日、(妻も娘と実家に帰っていることもあって)長崎行きの飛行機に、ひとりで飛び乗りました。

 

長崎のデ・スーザ家

アルミロ・デ・スーザは、ポルトガル領マカオから訪日した「サイモン・デ・スーザ」の実子にあたり、1880年、「日本で生を受けた最初のデ・スーザ世代」のひとりです(おそらく長男)。彼の生活は明治の同時期に(その後の日本国の社会の発展に寄与したとされる)グラバー等、外国人の中にありました。

長崎で生まれ育った彼は、様々な商売を起こしたり、従事する中で最終的には香港上海銀行(HSBC)の職を得、最後には主任となりました。実は当時の写真が、資料にも残っています。

アルミロの勤務していた「香港上海銀行 長崎支店」は現存し、今も当時の面影を残しています。同社屋は現在「博物館」となっており、そこにはアルミロが当時住んでいた地域の地図が存在。南山手の3番に居を構えていたデ・スーザ家は、実は、観光名所である「グラバー園」「大浦天主堂」に(資料として)情報を残しており、東山手から取られた写真には、間違いなく「デ・スーザ家」と思われる南山手8番の住居を伺うことが出来ました。

アルミロは41歳の若さで他界し、長崎の「坂本墓地」に埋葬されていますが、この墓石の前に鎮座する「祈る天使像」は、観光のガイドブックなどに使われて久しいです。

彼の子息は、16人におよびましたが、その多くは仕事を求め上海・神戸などに移住。女性は日本人と結婚する中で姓を日本姓に変遷させ、「デ・スーザ」の名は(残念なことに)長崎から次第に消えていきました。

 


上記は、今回の旅の中で得た、様々な情報をつなげた結果、浮かび上がった「デ・スーザ家」の姿です。
実は、出発当初は「グラバー園のコラムに載った」と「墓があるらしい」と言う2つの情報しか、僕の手元には無かったのですが……。

現地に足を運んで館員に当時の資料について尋ねるなどを繰り返す中で……

「え、うそ!? アルミロさんの末裔!?」とか言われたり、
「え、アルミロの事、知っているんですか!? 教えてください!」みたいな出会いがあったり。

研究員さんなどとの交流やら、司書さんとの「この文献に情報がありますねえ」など、僕より熱中して調べてくれる親切な人と出会い……。(感謝)

そして、集まった情報をまとめたら形になりました。

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「今からちょうど100年前、アルミロは、確かにココにいた」と、元銀行の一室の中で感慨にふけりつつ、長崎の町を巡る。
あの景色を祖先は見たのかもしれない、この道を祖先は歩いていたのかもしれない……そんなことを思いながら。

享年41歳は、偶然にも、今の私と同じ年齢です。そして、来年は没後100年と言う節目となります。

そんな「重なる偶然」に思いをふけりながら「アルミロは確かにここで生活を営んでいた」と言う事実を確信した時、何とも言えない感覚に至りました。

「なんだよ。格好いいじゃないか。デ・スーザ家」

文明開化の喧騒(歴史)の中に、確かに私の祖先はパイオニア(開拓者)として、そこに「居た」のです。彼らは何か大きなことを成し遂げたとは言えないかもしれませんが、その関係性の中で、祖国と、日本のために一生懸命「生きて」いたことは事実です。

彼ら祖先の何が欠けても、どのタイミングがずれても今の僕は存在しえません。

そんなことを考えると、これまで「何にも属さない自分」がポツンと「点」として存在していた(と思っていた)のが、実は脈々と受け継がれる「線」の上にいることに、僕の存在が「ここに帰属していたこと」に気づき、目頭が熱くなりました。

この旅路に得たもの

さて、ここから少し話を続けると。実はこの「神戸」に出向いた「デ・スーザ家」の先に、現在この分家における「最後のデ・スーザ」として、自分が存在していると理解します(名前だけ引き継いでいる分家ですから、財産的なものは皆無な訳ですが)。

僕こそ、まだ男性な訳ですが、いずれ、(他のデ・スーザがそうであったように)女性のデ・スーザだけとなった先には、「旦那方」の日本姓を名乗ることになるでしょう。そして、血は残り、名は日本の文化に溶け込んでいく事となるでしょう。

しかし、個人的には「それで良い」と思います。

子々孫々と「何だか分からないけどカタカナの名前」と記号化しても仕方なく、消え行く事はだれも止めることはできない…と僕は思うからです。

それが「移民」が差別をされなくなるための自然な(そして理想的な)「あり方」の最終形の1つだと思うのです。

ただ、せめて自分に出来ることがあるとすれば、この分家における「最後のデ・スーザ姓を生涯名乗るもの」として、せめて「ご祖先様に誇れる人生を全うすること」……だと感じます。

仮に、あの世で、祖先や親せきにお会いした時に「いやー、僕も、結構、(祖国と日本のために)がんばりましたよ!」と土産話を持っていくには、たぶんそのくらいしないと怒られるでしょう(笑)

僕は今、そんな「敬意と誇り」を、初めて自分の「姓」に見出したことに、心を躍らせています。

僅か2日の「ルーツを巡る旅」でしたが、
この僕の旅は、間違いなく「人生を変えた最高の2日間」となりました。

ひとり旅ってやつも、良いものです。

 

Digiprove sealCopyright secured by Digiprove © 2020 Ricky de Souza

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